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インタビュー

建築家から土の作家への転身「ものづくりの原点へ」泥だんごで伝えたいメッセージ

今回は各種メディアでも取り上げられている「光るどろだんご」の田村和也先生にお話を伺いました。


photo by:Masashi Noda


田村先生は、建築家として住宅設計などを行っていました。
また、教育者としても大学・専門学校などで教鞭をふるう中、左官業界では「左官の神様」と呼ばれている、故・榎本新吉氏との出会いから、土の世界へと引き込まれていきます。

建築家として、造形家としての視点から、家づくりのこと、ワークショップのことなど、多岐にわたるお話を伺うことができました。

※文中では、田村先生への親しみを込めて「田村さん」と書かせていただきます。

 

建築家としてのはじまり

自らを「僕はジプシーなんだよ」とおっしゃる田村さん。その経歴はとても興味深いものでした。

田村さんはお父様の影響で建築を志しますが、東京芸術大学の建築学科を卒業後、役人として勤められたお父様の姿を見て、ご自身はアトリエ建築家を目指すことに。

建築はお父様の影響で、子供のころからずーっと写真や実物を見てきた経験から、周りの同級生より劣っていると感じたことはまずなかったと言います。

大学卒業後、教授の研究室・アトリエに継続して通い続けていました。
卒業から4年がたち、弟子になる覚悟でいましたが、家庭の事情で勤めに出ることになった、と当時を振り返ります。
 


photo by:Masashi Noda


時を同じくして、お父様が56歳の若さで他界します。

学生生活を離れ、勤めには出ますが、郵政の保養施設を作る部署に配属され、「ちっとも面白くない!」と入社半年ぐらいで、仙台の宅地造成の現場に部署移動を願い出て毎日山歩きをして過ごしていた、と田村さん。その後も、大江修設計事務所、博報堂の建築チームと、引き寄せられるまま、職を転々としたと言います。

34-5歳のころ、友人と3人で「設計工房TALO」を設立。アトリエ建築家のキャリアをスタートさせます。

「TALOでの活動はそれなりに評価されて、関西で仕事をしたり、産経100人の住宅作家に入ったり、とそれなりにやっていたんだよね。そもそも自分はコツコツ何かをやりとおせるタイプの人間ではないし、一カ所にとどまって、という執着も特になくてね。自分の中で、ここまでやったな、と解決してしまうというか。設計、教育、彫刻の3つをやっていて、ずっとジプシーな感じでしたね。」と当時を振り返ります。

全部中途半端なんだ、と田村さんは謙遜されていましたが、一つ一つの経験がすべてつながり重なりあって「田村和也」さんを形作っているように感じました。

 

“家づくり”の価値観が刻々と変化する中で

「1970年ころの住宅設計で、“自然素材”みたいなことはまだまだ全然考えていなかったけど、壁紙でも今ではないような本物の布や和紙などを使っていました。あるメーカーがプリント柄のクロスを見てほしいと持ってきたことがあったけど、『なんで?』って思っていました。『なぜわざわざ偽物を?』と感じたのは覚えています。だから新建材には、はなから興味がありませんでした。」と田村さん。

1960年代ごろから徐々に普及し始めた新建材の歴史はまだ浅く、それ以前の家づくりは、もともと自然素材を活かしたものであることを私たちは忘れてはなりません。

「漆喰は当時ももちろんあったけど、昔はベニヤ板を張るより安かったんですよ。『押入れには漆喰を塗るもんだ』と言われていて、ベニヤ板より安いし、湿気もとれる。今となってはそりゃそうだ、と思いますけど、当時はこの程度の知識でしたね。
土のことはこのころはまだ全然知りませんでした。独立してからもずーっと土とは関係なくやっていたし、土も左官も古臭いと思っていました。建築界でも安く早くの高度経済成長の真っただ中で、土を扱う人もそもそもいませんでしたね。」家づくりが変貌していく過渡期をど真ん中で過ごされた田村さん。

「家」そのものへの価値観が大きく変わっていく時だったんだろうと思います。




出典:大和ハウス工業株式会社

しばらくして、ミュゼットハウスというプレハブ住宅が作られ始めました。

世の中は所得倍増、列島改造、なんてことが叫ばれていた時代です。その後、建築界にどんどん大手企業の資本が入ってきて、建築業界が変わっていく時代に入ります。

「40代ぐらいまでは家を丁寧に作っているという実感があったし、まだ建築家に対する夢があった。」と当時を振り返ります。

時代の変化に伴い、だんだんと丁寧な家づくりの価値は薄れ、3人のアトリエでは思う仕事ができなくなっていきます。田村さんにとっては本意ではない方向、「どんどん稼ごう!」という風になってきたと言います。

 

家は住まい手と建築家が共に創るもの

「家って、昔は作るものだったんですよ。それがいつの時代からか、家は買うものになった。
家は、その住まい手と建築家が共に創るものでした。一人一人の人生の作品だったのです。

それが、いつの間にか家は商品になってしまった。

住まい手はいかに安い商品を手に入れるかを考え始め、作り手も何が売れるか、どう売るかを考えることに傾注しだした。形も材料も、そういう中からしか生まれてこなくなった。

職人はサポートをするだけ。売れるかどうか、が大事な観点となり、もう住宅の概念からは離れてしまっているように思う。こうなったのは、せいぜい50年ぐらいのことですよ。早く安く、均一に。

住み手側のことではなく、作り手の責任が取れないから、メーカーは樹脂をはじめとした化学物質で〇〇もどきの商品を作る。もちろんそうじゃない会社もありますけどね。

でも今の家づくりってこんなだよ、と知ったうえで、自分たちにそれしか選択肢がないのなら仕方のないことだけど、これから家を作る人には、丁寧に作られることの価値をもう一度良く考えてもらいたいな、と思いますね。」

「丁寧に作られた家具と勝手に作られた家、どちらが高級だと感じますか?
価格的には家は高いですよ。でもそのものの価値はどうですか?

私は丁寧に作られた家具の方が、価値は高いと感じますよ。家を、住まいをどう考えるか。
そこで人生を繰り広げる。そう考えた時に、価値ある空間に住まうということはとても健全なことだと僕は思いますよ。」

田村さんのお話を聞き、今私たちが取り組んでいるLOHAS studioの家づくりは「これでいいんだ」と背中を押されたように感じました。


教育者としてのキャリアのスタート

「40過ぎたころかな、もうこんなやり方では続かないなーと感じていたら、日大の先生から電話がかかってきたんですよ。」

田村さんに、新たな転機が訪れます。
建築家としての仕事も並行して続けながら、教育者としての20年が始まります。


「日大に1日、デザイン学校に2日、インテリアデザイン科の非常勤講師をしていました。最終的には週6で行くこともあり、主任も任されましたが、自分は教育者ではないし、『時間しか売らない!』と決めていたので、非常勤講師を貫きました。

デザイン学校の先生たちって、デザインをしていた人たちだし、学校運営なんて関係ないことでしょう。やりたくないことはやりたくない!そんな風に思っていましたから。」
学生たちへは惜しみなく自分の経験や知識を伝え指導する、ということに集中した田村さん。

 

左官の神様「故・榎本新吉」氏との出会い


出典:竹中大工道具館
 

教育者として過ごす中、56,7歳の時に故・榎本新吉氏と出会います。

「泉幸甫(いずみこうすけ)さんという建築家の方の紹介でした。土壁が流行りだしたころで、左官の面白い人がいるよ、と。多くの人に榎本さんに会ってみなよ!と言われたんです。」

当時は全く興味がなかったという田村さんも、あんまりにもみんなから勧められるので、榎本さんに会いに行くことに。みんなからの勧めの通り、榎本さんとの出会いは衝撃的だったと言います。

「榎本さんの作業場には材料や道具がすごくたくさん置いてあって、サイズ、網目が異なるふるいが壁にかかっていたことがすごく印象的だった。左官には全く興味がなく、知らなかったけれど、道具の様子を見てすごく興味がわいたんですよね。学生時代の教授は金属粉(銅粉)と樹脂を混ぜて作品を作っていたが、その材料ではカラダを壊すことを知っていたから、その背景もあって、榎本さんがやっていることはすごいことだな、アートだ!と感じたんです。」


photo by:Masashi Noda

田村さんは榎本さんの作業場に定期的に通うようになり、だんだんと榎本さんとのつながりもできてきました。田村さんと出会った当時の榎本さんは、まだ顔料を使って色を補っていました。

「せっかく土にこんなに美しい色があるのだから、顔料をつかうのやめてみませんか?」と田村さんが提案すると、「じゃあやめようか!これは大津磨きだね!」と榎本さん。

今のどろだんごの“現代大津磨き”は田村さんと出会って少し後に榎本さんが取り組みだしたことだったそうです。その後も二人の交流は続き、現在の「光るどろだんご」を完成させました。

「僕自身は、何にでも、何に対しても『これでいいのか?』と考えてしまうタイプの人間で、確立したものの中に入りたくない性分でした。きっと他の左官屋についていたら、ここまでのめり込むことはなかっただろうと思います。榎本さんという“左官技術の昔と今の違い”など、身をもって感じてきた人から話を聞くことができたという影響は大きかったですね。

本物に対する姿勢、みたいなものは、榎本さんから学んだな、と思います。思想ではなく、体験的にね。」と貴重な榎本さんとの思い出をお伺いできました。
 

土のワークショップで伝えたいこと

「素材から材料を作り、形にするという一連のプロセスを体験できるのは、土を置いて他にはないんじゃないかと思っています。紙も楮(こうぞ)から、なんてなかなかできるものじゃありませんよね。
参加者の皆さんには、本当のものづくりを知ってもらえたらがいいなと考えています。」
 


photo by:Masashi Noda

ワークショップをするにあたって、田村さんが大切に考えている3つのことを伺いました。

①安全で持続可能であること
化学物質不使用であること。CO2を出さないために不燃焼であること。これらのことは環境問題に対する、作り手からの答えであると考えています。ワークショップの会場に赤ちゃんが来ても大丈夫です。

②作ったものを愛おしむ心を育てること
今学生たちに課題を出すとまず材料を買いに行くんですよ。目指す形を得るために材料を買う。お金があれば思い通りの形を作ることができる。お金がないと何もできないのか?それって違うな、と思うんです。

素材から材料を作り、道具を作ることを知っていることが大事。素材から材料を作り形にするというプロセスのすべてが味わえる土だからこそ、ワークショップを通じて、ものづくりの醍醐味を味わい、作り上げた喜びとそれを愛おしむ気持ちを持ってもらえたらと考えます。

泥だんごのワークショップでは、田村さんが粗方丸めた土の芯に、ノロ(土・石灰を水で練ったもの)に顔料を混ぜた色泥で着色をして磨いていきます。

③インテリアや建築の中で土を活かすこと
土壁を見て、「ひっかいても大丈夫ですか」とか「ひび割れませんか」と聞かれることがある。

強度という考え方には、短期強度と長期強度があります。
樹脂などを使って固めたものは短期強度は、とても強いものです。自然素材を上手く生かして使ったものは、短期強度では劣るかもしれませんが、長い年月を考えるとこちらが勝ることが多くあります。

土壁や木の床に触れる時、力の加減をしたり、自然の持っている変化を意識できる、感じることができる、ということが大切かなと思います。

インテリアや建築で土を使う以上、その変化を受け入れられる心持が大切です。
「土」のものが家にある。それは気持ちのいいことですよ。

何万年もかかって作られた色たちは、簡単に太陽光に負けるものではない。これらの経年変化をどのぐらい感じられるか。こういうことを、ワークショップを通じて伝えられたらと考えています。

 

▼泥だんごのワークショップに参加する

 

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